新選組って言えば、鮮やかな浅葱色のだんだら羽織がトレードマークですよね?
でもそのだんだら羽織…
じつは、あまり使われなかったってご存知でしたか?
理由は、羽織があまりにも悪趣味だったから!
そして、新選組内部の派閥争いも多少からんでいたんだとか。
今回は、その辺の事を簡単にまとめましたー。
ヨシ
3分ほどで、サクッと読めるかと思います。
どうぞ、最後までお付き合いください。
浅葱色のだんだら羽織ってそんなに悪趣味なの?
ではでは、まずは浅葱色のだんだら羽織ってそんなに悪趣味なの?なんてお話から。
だんだら羽織というのは、三角のだんだら模様がほどこされた羽織のこと!
じつはこれ、『仮名手本忠臣蔵』という歌舞伎の赤穂浪士達の舞台衣装をパクったものなんです。
歌舞伎の舞台衣装を来て、京都をパトロールするというのは…
今風に言えば、演歌歌手の舞台衣装着て街を徘徊するような感じ?
これだけでもけっこう珍妙なのに、色がまた大問題!
赤穂浪士の衣装は、黒字に白のだんだら模様だったのですが、新選組の羽織は浅葱色!
もともとは、アサギマダラという綺麗な蝶々の色なのですが…
幕末のこの時代では、浅葱色って「田舎者」とか「野暮」とか「貧乏」を象徴する色だったんです。
つまり、浅葱色のだんだら羽織って、あり得ないほどダサかったってことなんです。
でも、よりによって、どうしてそんな色を選んでしまったのでしょう?
浅葱色の意味は会津藩の身分を表わしていた?
じつは、浅葱色は会津藩の身分制(紐襟制)で最下層の色だったからなんです!
もともと新選組は、京都守護職を務めていた会津藩預かりの組織として、スタートしています。
浪士を集めた非正規の組織だったため、その最下層の浅葱色に定められたようです。
武士の切腹用の裃が浅葱色で、決死の覚悟を示すため浅葱色にした!なんて説もあるようですが…
やはり、会津藩の下部組織だったからという方がスッキリしますよね?
ではでは、そんな浅葱色のだんだら羽織。
発案者は、いったい誰だったんでしょうか?
羽織の発案者は誰?使われなくなった理由は?
だんだら羽織の発案者は、どうやら初代局長の芹沢鴨だったようです!
芹沢鴨が鴻池から押し借りしたお金で、大文字屋呉服店(現在の大丸)に注文したんだとか。
ではでは!
そんな押し借りしてまで作った羽織が、使われなくなってしまったのはナゼ?
じつは、ダサ過ぎるという他にも、理由があったようなんです!
当時新選組には、初代局長の芹沢鴨を中心とする水戸派と、近藤勇や土方歳三を中心とする試衛館派という2つの派閥がありました。
この2つの派閥、けっこうバチバチだったんですよね。
『新選組遺聞』には、近藤や土方などが、このだんだら羽織を着なかったという記録が残っていることから…
芹沢や水戸派の決めた事には従いたくない!という意向もあったようなんです。
実際、羽織を作った同じ年には、芹沢は近藤や土方に暗殺されてしまいます。
それと同時に、芹沢の作っただんだら羽織も使われなくなって行きます。
そして、翌年の池田屋事件を最後に、誰も着る人が居なくなったそうです。
それではその後、新選組はどんな服を着ていたのでしょうか?
その後の新選組の服装は黒装束?
その後の新選組の服装は、まさに黒ずくめだったようです!
新選組につけ狙われていた、大村勤皇党の渡辺昇は「黒衣黒袴、問わずしてその新選組たるを知る(黒衣黒袴なら、聞かなくても新選組と分かる)」と証言しています。
また明治末期の老人の証言によると、新選組の隊士は「黒羅紗筒袖の陣羽織」を着ていたんだとか。
いずれにしろ、上から下まで黒!というのが隊服のようになっていたようですね。
まとめ
さてさて少し長くなりましたので、この辺でまとめます!
本当!
あり得ないほどダサかった!
武士の鑑と言われた赤穂浪士リスペクトから
会津藩の身分制(紐襟制)で最下層の色だったから
発案者は芹沢鴨
新選組内の派閥争いも羽織が使われなくなった一因
全身黒ずくめだった!
新選組と言えば、浅葱色のだんだら羽織を着ていたもの!って思い込んでたけど、実際は、黒ずくめだったんですね?
でも、考えてみれば当然かも?あんな目立つ服で、偵察やら尾行やらまともに活動出来ないですもんね?