今回のテーマは「長篠の戦いの真実」について!
「長篠の戦い」といえば、戦国時代でもかなり有名な合戦ですよね?
迫りくる常勝武田軍の騎馬軍団を、織田・徳川軍が馬防柵でせき止め。
三段に構えた三千挺の鉄砲で、間断なく撃ちまくる!
そして、戦国最強と言われたあの武田騎馬隊が、次々と殲滅されてしまう…。
そんなシーンを連想する方が、多いのではないでしょうか?
でもじつは!
「三千挺の鉄砲」も「三段撃ち」も、どうやら後世の脚色。
ハッキリ言ってしまえば、ウソだったようなのです!
「何だその話?」
「聞いたことないぞ!」
なーんてツッコミが入りそうですが。
今回は!
「長篠の戦いの真実!三千挺の鉄砲隊も三段撃ちもウソだった?」
っという事で、長篠の戦いの真相に迫りたいと思います!
ヨシ
5分ほどで、サクッと読めるかと思います。
どうぞ、最後までお付き合いください。
長篠の戦いについて簡単におさらい!
ではでは、まずは!
『長篠の戦い』について簡単におさらい。
そもそも長篠の戦いとは?
『長篠の戦い』とは、三河国の長篠城の付近の設楽原(したらがはら)で、武田勝頼軍と織田信長・徳川家康の連合軍が激突した合戦。
1575年(天正3)5月、徳川方500名が立て籠もる長篠城を、武田勝頼軍1万5千が包囲!
そこへ、織田信長・徳川家康の連合軍3万8千の援軍が、駆けつけます。
この圧倒的な兵力差を知った武田方の重臣達は、全員で撤退を主張します。
ところが、勇敢なうえに戦が強すぎた勝頼は開戦を決断!
こうして、決戦の火蓋が切って落とされます。
戦いの経過を簡単に!
いっぽう信長は、それまで徳川軍相手に連戦連勝だった勝頼の強さを、逆手にとった作戦に出ます。
武田軍が着く前に大規模な野戦築城を行なって、設楽原の自陣を城のように固めて武田軍を待ち伏せます。
徹底的に守りに入る訳ですね。
さらに、念の入ったことに、長篠城にも別働隊を派遣して武田軍の砦(とりで)を奪取!
これで長篠城の包囲が解かれ、武田軍は退路を断たれ、挟み撃ちされる形になってしまいました。
ここから、あの有名なシーンに繋がる訳です!
三千挺の鉄砲隊はウソだった?
織田・徳川連合軍は、陣地に手薄に見せかけた部分を作り、そこに馬防柵を立て鉄砲隊を伏せます!
やや高地に陣取った武田騎馬隊は、敵陣に風穴をあけようと、ソコに何度も波状攻撃を仕掛けます。
すると馬防柵に阻まれている武田軍に向けて、三千挺の鉄砲が、千挺ずつ交代で火を吹く訳です。
でもじつは!
織田軍の鉄砲は、実際には三千挺もなかったようです!
※『信長公記』によると、設楽原の決戦で使われた鉄砲は「千挺計」(約1,000挺)。
その他の部隊に「五百挺」の鉄砲を用意していたという記述があります。
※織田信長の側近の太田牛一が記した、織田信長の一代記。信憑性が高い史料とされている。
三段撃ちもウソだった?
しかも「三段撃ち」の方も、どうやら嘘だったようなのです。
根拠は3つあります!
- 『信長公記』に記述がない
- 現実的に無理!という説が一般的になってきた
- ネタ元が信憑性の低い甫庵本『信長記』だった
『信長公記』に記述がない
そもそも『信長公記』には、「三段撃ち」の記述は一切ありません!
ただ「鉄砲奉行5人に指揮を取らせた」という記述があるのみです。
現実的に無理!という説が一般的になってきた
さらに、織田・徳川連合軍は、騎馬隊が攻めにくいように、入り組んだ地形に陣を張っていました。
そもそもそんな入り組んだ地形で、横一直線に並ぶのは不可能!
さらに、混乱した戦場のそんな狭い陣の中、火のついた火縄銃を持ち、大人数が一斉に移動するのは無理!
最近では、そんな説が一般的になっています。
※参考(外部リンク)
長篠・設楽原:下 揺らぐ「三段撃ち」説
長篠の戦いの「三段撃ち」 現実的でなく後世の創作か
ネタ元が信憑性の低い甫庵本『信長記』だった
ではでは、どうして鉄砲が「三千挺」あったとか、「三段撃ち」をした!
そんな与太話が、広まってしまったのでしょうか?
じつは、小瀬甫庵の『信長記』がネタ元になっているんです!
甫庵本『信長記』は、太田牛一の『信長公記』に創作を加え、ドラマティックにした軍記物。
どちらかと言えば、小説に近い部分があり、史料としての信憑性に欠けます。
武田軍はなぜヒドい負け方をしたのか?
ではでは、「三千挺」の鉄砲も「三段撃ち」もなかったのに、どうして武田軍はヒドい負け方をしたのでしょうか?
理由は3つあります!
- 単純に兵力に2倍以上の差があったから
- 織田・徳川軍の野戦築城が巧みだったから
- 武田軍が退路を断たれてしまったから
単純に兵力に2倍以上の差があったから
まずは、武田軍1万5千に対して、織田・徳川軍は3万8千!
兵力に2倍以上の開きがあるので、戦のセオリーで考えれば大負けするのが当たり前。
でも、この兵力差でも、野戦がめちゃくちゃ強い勝頼なら、勝ってしまう確率が高かったのかもしれません。
なぜなら、信長が徹底的に野戦を避けていたフシがあるから。
織田・徳川軍の野戦築城が巧みだったから
信長はガチガチに守りを固めて、自陣から一切兵を出さないように戦っています。
織田・徳川軍の設楽原の陣地は、当時としては異例と言ってよいほどの鉄壁な野戦築城が施されています。
武田軍としては、野戦というよりも城攻めを強いられるような形になってしまった訳です。
城攻めになれば、3倍以上の兵力でもなかなか勝てない圧倒的に不利な戦いです。
敵の陣形をハッキリ掴んだ勝頼は、ここで「退却」を考えたはずです。
ところが…。
武田軍が退路を断たれてしまったから
夜が明けると、鳶ヶ巣山砦は奪取され、長篠城の包囲は解かれ、武田軍は退路を断たれてしまいます。
このまま放っておけば、挟み撃ちを食らって大打撃を受けてしまいます。
かと言って、本軍に背を向ければ、後ろから大軍に襲いかかられながら挟撃を受け、全滅に近い被害を出してしまうでしょう。
この時点で、武田軍は犠牲覚悟で、正面の本軍を突き破るしか活路がなくなってしまったのです。
まとめ
さてさて「長篠の戦いの真実!三千挺の鉄砲隊も三段撃ちもウソだった?」いかがでしたでしょうか?
こんな感じで見てくると、やっぱり武田軍は惨敗して当然だった訳ですね?
半分以下の兵数で、城攻めをさせられ、退路を断たれ、挟み撃ちを食らう!
これじゃあ、いかに強い勝頼でも、どうする事も出来なかったでしょう。
つまり、長篠の戦いの真実は…
勝頼が「三千挺」の鉄砲隊や「三段撃ち」に負けたのではなく、信長の調略や作戦に負けた!
…という感じになるのではないでしょうか?
「長篠の戦い」の1番大きな謎!
「どうして、武田軍は無謀な突撃を繰り返したのか?」その理由も見えた気がする!
信長に追い込まれて、そうするしかなかったのかも?