先日、友人たちと飲んでいる時に、こんな会話になりました。
ヨシ
日本で一番の弓の名手って、誰だと思う?
うーん、源為朝?
歴オタ
歴女
私は、那須与一かな?
お前は、誰だと思うの?
歴オタ
ヨシ
えーと…
93歳で関ヶ原に参戦した大島光義かな?
えっ?誰ソレ?
めちゃくちゃ興味あるんだけど…
歴オタ
っという事で今回は、日本の弓の名手は誰だ?なんてお話!
源氏や平家、戦国武将から女性武者まで、楽しい逸話やエピソードを集めましたー。
5分ほどで、サクッと読めるかと思います。
どうぞ、最後までお付き合いください!
【藤原秀郷】平将門を倒し百足退治の伝説をもつ弓の名手
藤原秀郷といえば、平将門の乱を平定したことや百足(ムカデ)退治の伝説で有名ですよね?
でもじつは、弓の名手としてもメチャクチャ有名人!
なんでも、五人張りと言われる、大人5人がかりでようやく張れるような巨大な弓と、特製の太くて長い矢を使っていたんだとか。
そしてこのケタ外れの強弓が、巨大な百足を退治したという有名な伝説を生むわけですね。
もちろんそれは伝説で、実話ではないのですが…
それでも、今に伝わる大きな弓をつがえた肖像画や、将門を射殺した弓兵部隊の実力から言っても、やっぱり当時から弓の名手として名を馳せていたようですね。
【源為朝】化け物級の弓を引く源氏の暴れん坊
源氏で一番の弓の名手と言えば、やっぱり源為朝ではないでしょうか?
使っていた弓は巨大な五人張り、矢の方もハンパなかったようで…
為朝の放った矢を見た平清盛が「いったいどんな化け物なんだ?」と震え上がったほど。
伝えられているエピソードも、もちろん化け物級です。
乱暴と素行不良が過ぎて、13歳の時には父の為義に勘当され、九州に追放されます。
すると九州で勝手に鎮西総追捕使(今で言えば九州軍事&警察&政治の長官)を名乗って、諸国に軍事侵攻!
たった3年で、九州を制圧してしまいます。
この時為朝は、わずか16歳ですよ(笑)
その後、保元の乱で崇徳上皇方についた為朝は、弓を引けないように肘を外してから島流しになったのですが…
傷が癒えて弓が引けるようになるとまた暴れ始め、10年のうちに伊豆七島を制圧してしまったそうです(驚)
【平教経】源義経が避け続けた平家の猛将
平家一番の弓の名手と言えば、平教経でしょう!
源義経のライバル的存在で「王城一の強弓精兵」と謳われた猛将です。
実際に平家の武将の中で飛び抜けて強かったようで、常に一番の激戦区に教経の姿がありました。
これに対し源義経は、教経の強さを熟知していたようで、常に教経を避けるように戦っていた感があります。
そして逃げる義経を追う教経…
屋島の戦いでは、源氏の武将を次々に射落としながら、義経に矢を射かけます。
この時、義経四天王の佐藤嗣信が、義経の盾になって討死します。
そして続く壇ノ浦の戦いでも、源氏の武将を弓で散々射落とし、執拗に義経を追いかけますが…
最後は義経がピョンピョンと船を飛び回って、逃げ切ってしまいます。
このエピソードが、あの有名な「義経の八艘飛び」です。
【那須与一】平家が立てた扇の的を射た弓の達人
そして、源平合戦の弓の名手として、忘れてはいけないのが那須与一。
平家物語の「扇の的」のエピソードでも、有名ですよね?
屋島の戦いで、夕刻休戦状態になった時、海上の平家の陣から美女の乗った一艘の小舟が表れます。
見ると、船の先端に扇を立てて「この扇を弓で射落としてみよ!」と挑発しています。
この扇を、義経に命じられた弓の名手那須与一が、音を放つ鏑矢で射抜いてしまう訳ですね。
いやー、これが物語じゃなく事実だとしたら、スゴい腕ですよね?
海上の揺れる扇の的の、ほぼど真ん中あたりを見事に射抜いてる訳ですから。
このエピソードは史実ではないとか、那須与一の存在すら怪しいという研究者も多いのですが…
与一の地元の大田原市には、かなりの史料が集まっているようですね。
【板額御前】女性ながらも百発百中を誇る強弓の名手
女性の弓の名手と言えば、もうこの人でしょう!
そう、板額御前ですね。
城資国の娘で、源平合戦に敗れた平家方の反乱軍の女性武将です。
吾妻鏡によると、弓の腕前は女だてらに百発百中の呼び声も高く。
鳥坂城(現新潟県)の戦いでは、板額御前の弓の命中率と、当たれば確実に死ぬ強烈な威力で、意気上がる幕府軍の勢いを削いでしまったほど。
いやー、凄まじい女傑ですねー(汗)
【大島光義】93歳で関ヶ原の戦いに参戦した偉丈夫
戦国時代の弓の名手と言えば、この大島光義でしょう。
どちらかと言えば、93歳で関が原の戦いに参戦した偉丈夫…
なーんてイメージの方が強いですが、弓の腕前の方もピカイチ!
っというよりも、弓一筋で信長・秀吉・家康に仕え、1万8千石の大名にまでのし上がっています。
光義が信長に仕えた時には、弓部隊のあまりの活躍ぶりに「白雲をうがつような働き」と賞され、信長から雲八という名前をもらっています。
さらに70代で秀吉に仕え、200人弓大将に抜擢され、数々の武勲を挙げて90歳の頃にはついに1万2千石の大名に。
そして93歳の時には、関ケ原の戦いで東軍の家康に仕えて大きな武功を挙げ、ついには1万8千石の大名にまでのし上がっています。
弓一本でここまで来る実力、まさに弓の名手の面目躍如ですよね?
※参考(外部リンク)
九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義
【立花宗茂】西国無双・戦国最強の呼び声も高い
そして、戦国時代のもう一人の弓の名手と言えば、立花宗茂でしょうか?
この武将も「西国無双」とか「戦国最強」なんて、戦上手のイメージの方が強いかもしれません。
でも、ただ戦が強かった訳ではありません。
弓の実力も、日置流弓術の免許皆伝!逸話もたくさん伝わっています。
初陣では、騎射で敵の有力武将の腕を射抜いてしまったり、浅野長政を接待した折には、数十メートルも離れた鴨とホオジロをそれぞれ一矢で射ってみせたり…
さらに一番有名なエピソードは、黒田長政との鉄砲vs弓矢論争でしょうか?
「戦では鉄砲の方が役に立つ!風が吹けば弓矢なんか当たらない!」という黒田長政に対し…
立花宗茂が、「雨が降れば鉄砲なんか使えない!弓のほうが有利だ!」と反論。
最終的には、双方の弓と鉄砲をかけて的当てで決着をつけようという事になりました。
そして勝負の結果、立花宗茂が見事に勝って、長政愛用の鉄砲「墨縄」を手に入れたんだとか。
その後、二人は仲直りし、宗茂も長政に弓を贈ったそうです。
まとめ
さてさて、いかがでしたでしょうか?
平安から戦国時代まで、さまざまな弓の名手を見てきました。
それぞれにスゴい逸話が伝わっているということは、弓の腕も相当だったんでしょうね。
「この中で、誰が一番の弓の名手だと思う?」
なーんて聞かれたら、ボクとしては冒頭でもお話したように、やっぱり『大島光義』かな?なんて思っています。
弓一本で、足軽から1万8千石の大名にまでのし上がったその腕前!
本当にスゴいなーって思います。
みなさんは、誰が一番の弓の名手だと思いますか?
日本には、源氏や平家、女性から戦国武将まで、たくさんの弓の名手がいた!
戦だらけの世界ながら、美しく紡がれて来た逸話の数々、とても魅力的ですよね?