今回のテーマは、織田信長は残虐なのか優しい人だったのか?なんてお話!
信長のイメージと言えば「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス」って感じ?
どちらかと言えば、短気とか残酷みたいな印象が強いですよね?
でもその一方で、盆踊りを開いて自ら天女のコスプレで、領民たちを楽しませた!
なんて、気さくでいい人風なエピソードが残っていたり…。
コレって、いったいどっちが本当なんでしょう?
今回は、そんな謎に迫ってみたいと思います!
ヨシ
5分ほどで、サクッと読めるかと思います。
どうぞ、最後までお付き合いください。
織田信長が残虐とか残酷と言われる理由って?
ではでは、まずは織田信長が残虐とか残酷なんて、言われちゃう理由について!
大きな根拠は、どうやら3つあります。
- 寺院を焼き討ちしたり宗教勢力を殲滅した
- 天正伊賀の乱で3万人を殲滅した
- 浅井・朝倉氏の髑髏(ドクロ)の杯で酒を飲んだ
それぞれ見ていきましょう!
寺院を焼き討ちしたり宗教勢力を殲滅した
信長は、宿敵である寺社勢力との戦いの中で、寺社を焼き討ちしたり、かなりの数の僧侶や信徒を殲滅しています。
1571年の比叡山焼き討ちでは、寺に火をかけ3千人以上が犠牲に。
1574年に終わった長島の一向一揆では、一揆勢を城に閉じ込めて火をかけ、2万数千人を焼死させ。
さらに1575年の越前一向一揆では、勝敗が決まった後に、1万2千人の一揆勢を殲滅したと言われています。
天正伊賀の乱で3万人を殲滅した
そして、1581年の第二次天正伊賀の乱では、9千人の伊賀忍者を壊滅状態に!
さらに、伊賀衆をかくまった村や、逃げ込んだ村の住人を含めると3万人以上を殲滅したと言われています。
浅井・朝倉氏の髑髏(ドクロ)の杯で酒を飲んだ
さらに、これが極めつけ!
信長包囲網の一翼として、信長に逆らい続けた浅井久政・長政父子と朝倉義景を倒した後。
三人の首を漆と金箔(薄濃:はくだみ)で髑髏(ドクロ)の杯に加工して、酒を飲んだ!
そんなエピソードも残っています。
コレが本当だとしたら、残虐とかいうよりも、信長ってかなりヤバいですよね?
信長が優しいとかいい人とか言われる理由って?
ではでは今度は、逆に織田信長は優しいとか、いい人なんて言われる理由について!
根拠はおもに4つあります。
- 傅役(もりやく)である平手政秀の死を悼む
- 裏切り者も許す
- 秀吉の正室の寧々(ねね)に慰めの手紙を送る
- 「山中の猿」という障害者をいたわる
それぞれ見ていきましょう!
傅役(もりやく)である平手政秀の死を悼む
※参考:政秀寺公式ホームページ
信長は若い頃、素行の悪さで「大うつけ」として有名だったのですが…。
ある日それを諌めるため、傅役(もりやく)だった平手政秀が自害してしまいます。
この時信長は、自分を育ててくれた「じい」が、自分のせいで死んでしまったことに責任を感じ、めちゃくちゃ悲しみます。
そして、「じい」の名をつけた「政秀寺」という寺を建て、菩提を弔っています。
裏切り者も許す
信長ほど人に裏切られた武将も珍しいですが、じつはけっこう裏切り者を許しているんですよね。
例えば、尾張統一前に信長に謀反した、弟の織田信勝(信行)を許してますし。
この時、信勝に味方した柴田勝家や林秀貞も、普通に召し抱えてます。
松永久秀にいたっては、2回も信長を裏切ったのに、茶器をくれたら許す!
なーんて悠長な事を言っています(笑)
秀吉の正室の寧々(ねね)に慰めの手紙を送る
そして、人に気を遣う細やかな一面も!
ある日、豊臣秀吉の正室の寧々(ねね)が、信長にグチの手紙を送って来ました。
秀吉の女グセが、あまりにヒド過ぎる…。
その返信の中で信長は「あなたほどの女性を二度とあの「ハゲネズミ」は見付けることができない」と慰めたそうです。
「山中の猿」という障害者をいたわる
岐阜の山中という村に、「山中の猿」と呼ばれる体の不自由な乞食がいました。
「猿」がいつも同じところで雨にたれているのを不憫に思った信長は、村人たちに木綿二十反を預けます。
「この半分を使って小屋を建て、この者が飢え死にしないよう、情けをかけておいて欲しい」と伝えます。
「山中の猿」も村の人たちも、信長は情け深い方だと涙したというエピソードが残っています。
信長って結局残酷だったの?優しかったの?
さてさて、こんな感じで見て来ましたが、信長って結局残酷だったんでしょうか?
それとも、優しかったんでしょうか?
じつは、2016年に豊臣秀吉が家臣に宛てた、33通の書状が見つかっています。
その中で、秀吉は家臣にこんな事を言っています。
「追放した奴をかくまうな!信長の時代のように甘くない!」
つまり、秀吉は「信長は甘かったから、家臣に裏切られて滅びた」という認識を持っていたということ。
もっとハッキリ言っちゃえば、信長の欠点は優しすぎ!ってことなんですね。
そうやって考えると、宗教勢力や伊賀忍者の殲滅や、髑髏(ドクロ)の杯も見方が変わって来ますよね?
何か理由があるのでは?
※参考(外部リンク)
「信長の時代のように甘くない」 秀吉の書状33通発見
宗教勢力を殲滅した理由
この時代の寺社は、強力な傭兵を持つうえに、檀家や氏子から巻き上げた金で高利貸や武器屋を営み、海運や陸運なども支配する戦争屋のような存在!
しかも、たちの悪いことに、武士でもない庶民の『心』を操って戦闘員に変えてしまいます。
庶民を操って戦争すれば、兵の損耗ナシで戦えて好都合なのでしょうね。
この結果、3つの事が起こります!
- 信者になったら庶民が戦闘員に変わる
- 誰が戦闘員で誰が違うのか分からない
- 寺社と戦うと罪のない民衆を虐殺したと言われる
これが、信長が宗教勢力と戦う時、僧侶も庶民も含めて殲滅して、虐殺者と言われた理由になります。
伊賀忍者を殲滅した理由
天正伊賀の乱でも、じつは同じような事が起こっていたんです。
一度目は、伊賀忍者たちに完敗してしまった信長軍。
二度目は絶対に負けられない戦いだったのですが、伊賀忍者たちはゲリラ戦に強く、信長軍にかなりの被害が出ていました。
それでも何とか追い詰めると、伊賀忍者達は庶民に化けて逃げたり、油断させて襲いかかって来たりします。
どうしても負けられない戦いで、誰が戦闘員で誰が違うのか分からない状況…。
そんな中で、殲滅戦を決断することになったのではないでしょうか?
浅井・朝倉氏の髑髏(ドクロ)の杯を作った理由
浅井・朝倉氏の髑髏(ドクロ)の杯にいたっては、ハッキリ言っちゃえばウソ!
たしかに、信長は浅井久政・長政父子と朝倉義景の頭蓋骨に、漆と金箔で装飾を施したのは事実のようです。
これは『信長公記』にも記録があり、当時は敵に敬意を表し勇気を称える意味があったようですね。
でも、それを杯にして酒を飲んではいないようですよ!
信長は下戸で、酒はほとんど飲めませんし。
まとめ
さてさて、「織田信長って残虐だったの?それとも優しい人だったの?」いかがでしたでしょうか?
やっぱり、多くの人の上に立つ人間って、冷酷過ぎてもダメだし、いい人だけでも無理ですよね?
両方の面がないと厳しいと思うのですが、当時の人から見れば信長は…
どちらかと言えば、優しい方に寄っていたんでしょうね?
信長の右腕のような存在だった、秀吉が言うんだから間違いないでしょう。
織田信長は、残虐とか残酷な面も確かにあったかも。
でも、当時の武将の中では、どちらかと言えば優しくていい人寄りだったのでは?