今回は伊賀忍者の名前や苗字、ルーツなどについてのお話!
忍者って言うと、けっこう謎に包まれてますよね?
伊賀忍者だったら、有名なのは服部半蔵ぐらい?
あとは、テレビや映画、アニメなんかでちらほら聞く程度で…
正直、実在するのかどうかも怪しい!そんなキャラクターばかりですよね?
そこでそこで今回は!
伊賀忍者の有名人の名前は?末裔の苗字やルーツって?という事で。
伊賀忍者の真実に、迫ってみましたー。
ヨシ
5分ほどでサクッと読めると思います!
どうぞ、最後までお付き合いください。
伊賀忍者の有名人の名前って?どんな人?
伊賀忍者で有名人と言えば、この3人!
上忍三家の当主として、伊賀忍者を取り仕切った3人です。
- 服部半蔵
- 百地三太夫
- 藤林長門守
服部半蔵について
伊賀忍者で一番有名なのは、やっぱり服部半蔵ですよね?
「影の軍団」や「忍者ハットリくん」など、もはや忍者の代名詞のような存在です。
さてさてそんな服部半蔵ですが、一人じゃなかったって存知でしたか?
服部半蔵というのは、上忍三家の服部氏当主が代々襲名する名前!
じつは、こんな感じで何人もいたんです。
- 初代 服部半蔵
- 二代目 服部半蔵正成
- 三代目 服部半蔵正就
- 四代目 服部半蔵正重
この中で一番有名なのが、徳川家康に仕えた「二代目 服部半蔵正成」です。
家康の元で、伊賀忍者の頭領として伊賀衆・伊賀同心を指揮していました!
でもじつは、伊賀忍者たちには、メチャクチャ煙たがられていたんですよね。
というのも、伊賀衆や伊賀同心って、元々服部氏の家来じゃなかったからなんです。
要は、徳川家の部下にはなったけど、服部家の部下になった覚えはない!って事。
それでも、二代目の半蔵正成の代までは、渋々言うことを聞いていた伊賀忍者たちですが…
息子の三代目半蔵正就の代になると、対立が表面化!
そしてついには、この対立が元になって、半蔵正就は改易され身分を剥奪されてしまいます。
その後、正就の弟が四代目半蔵正重として家督を継ぎますが…
その時は、単なる徳川家の一旗本として召し抱えられ、すでに伊賀忍者の頭領ではなくなっていました。
百地三太夫について
百地氏は伊賀忍者の筆頭格で、伊賀流の祖と言われる家系です。
服部氏ほど詳しい史料が残っていないのですが、百地三太夫という名前も服部半蔵と同じく、どうやら襲名制だったようです。
歴代の百地三太夫の中で、一番有名なのが百地丹波!
「第一次天正伊賀の乱」で、織田信長の次男信雄が伊賀に攻め込んで来た時には、伊賀忍者の司令官として見事に信雄を撃退。
さらに、織田信長が自ら5万の大軍を率いて侵攻して来た「第二次天正伊賀の乱」では、柏原城(三重県名張市)に籠城して最後まで抗戦しました。
この時に、百地丹波は討死にした!と伝えられていますが、実際は紀州根来(和歌山県岩出市)に逃れていたようです。
そして、ほとぼりが冷めた頃に柏原城の近くに戻り、そこで一生を終えたそうです。
藤林長門守について
伊賀の上忍三家の中で、全くもって謎に包まれているのが藤林氏です。
伊賀流の頭領の一人なのに、記録もほとんど残っていない!
そして、伊賀忍者たちの総力戦「天正伊賀の乱」でも、何をしていたのか全く分からない。
それもそのはず!
どうやら、藤林長門守は百地丹波の別名。
湯舟郷の屋敷では藤林長門守を名乗り、喰代郷の屋敷では百地丹波を名乗っていたようです。
これは有事の際に、家を残すための工夫のようですね。
例えば、天正伊賀の乱では、信長に逆らったのはあくまでも百地氏!
紀州根来に逃れた後は藤林氏を名乗り、百地氏とは無関係を装ったようです。
史料によれば、子の「保武」は伊賀に戻り、藤林保武として「萬川集海」という忍術書を書き。
弟の「正武」は、紀州根来に残り「正忍記」という忍術書を書いたそうです。
表向きは藤林姓を名乗っていますが、「正」という通字からも、どうやら百地氏で間違いなさそうですね。
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百地丹波正西=藤林長門守正保
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藤林保武-藤林正武
伊賀忍者のルーツや末裔の苗字って?
ではでは今度は、伊賀忍者のルーツや末裔について探ってみましょう!
まず「伊賀」という地名は、猿田彦命の娘の女吾娥津姫(伊賀津姫)が治めた国というのが由来だったようです。
「猿田彦系=秦氏」ですので、どうやら、伊賀は「秦氏」の地という事らしいですね?
※参考 大避神社 船渡御(兵庫県)
秦河勝を祀る大避神社では、船渡御という祭りで猿田彦が秦河勝の祖先神として登場する。
服部氏について
「服部氏」という名前については、服部天満宮の由緒が詳しいようです。
※参考(外部リンク)
服部天満宮について ? 御祭神由緒
服部氏のルーツ
秦から渡来して来た人々が、機織りの技術を持っていたため秦氏(はたうじ)と呼ばれ、機織部(はたおりべ)という職能に就いたのがルーツだそうです。
そして、機織(はたおり)が服部(はっとり)に転訛したという事のようです。
つまり、こんな感じでしょうか?
↓
秦氏(はたうじ)
↓
機織部(はたおりべ)
↓
服部部(はっとりべ)
そして、服部氏が祀ってる神様!
伊賀市服部町に、服部氏が代々神官を務めていた小宮神社があります。
現在の御祭神は「呉服比賣命」ですが、かつては「酒ノ君」という服部氏の祖神が祀られていたそうです。
「酒ノ君=秦酒公」ですので、やっぱり『服部氏=秦氏』という事で良さそうですね?
服部氏の末裔
服部半蔵の直系の、大服部家は徳川家を追われた後、伊勢桑名藩に召し抱えられています。
そして、戊辰戦争では旧幕府軍として戦い、西南戦争にも参戦しました。
そして、1886年12代目の服部半蔵正義を最後に断絶してしまいました。
百地氏について
百地氏については、諸説あるようなのですが…
服部氏の同族というのが、一番有力なようです。
百地氏のルーツ
実際に史料を詳しく調べてみると、百地氏の本姓はじつは大江氏!
大江氏と言えば、土師氏の一族なので、確かに服部氏と同じく秦氏の一族ですね。
百地氏の末裔
百地氏の末裔としては、現在も三重県名張市に宗家が残っています。
現在の当主は、19代目の百地喜生さん。
職業はなんと、プロゲーマーなんだそうです!
※参考(外部リンク)
プロゲーマーは「伊賀忍者の末裔」 瞬発力、世界で活躍
まとめ
さてさて「伊賀忍者の有名人の名前は?ルーツや末裔の苗字って?」いかがでしたでしょうか?
忍者だけに、思ってたのと全然違って、ビックリするような内容が多いですよね?
服部半蔵は、じつは伊賀忍者に煙たがられていて、徳川家から追い出されていたとか!
有名な百地氏と藤林氏が、じつは同じだったとか…。
…( ̄へ ̄;) ウーン
でも!こういうところが歴史の面白さだったりするんですよね。
伊賀忍者のルーツは、どうやら秦氏!
というより、伊賀の里や三重県全体が秦氏の地盤なのかも?