何度かこのブログでも書いてますが、ボクの父方の先祖は悪名高い風魔一族です!
そして、母方の先祖は、これまた悪名高い梶原景時!
そんなボクから見ると、歴史ってなかなかに複雑なんです。
鎌倉時代の初期にあった梶原景時の変って、ご存知でしょうか?
鎌倉幕府の二代将軍頼家の後見人だった梶原景時が、鎌倉から追放され、一族が滅ぼされた事件です。
日本史の中では・・・
「梶原景時を、他の御家人たちが滅ぼした事件」となっていますよね?
でも、ボクの中では、梶原景時の変とは・・・
「母方の先祖である梶原一族を、父方の先祖である風魔一族が追い詰めた事件」だったりします。
何だソレ?聞いたことねーぞ!
なーんて声もありそうですが、子孫ならではの見解もアリですよね?
ヨシ
3分ぐらいで読めちゃいますので。
どうぞ最後までおつき合いください!
歴史で語られる梶原景時の変とは?
まずは、梶原景時の変について軽くおさらい!
日本史の一般常識の中では!
梶原景時は、讒言魔で陰謀家で性格が悪いため、日頃から御家人達に嫌われていた。
ある日「今度は、結城朝光を讒言した!」っという事で、怒った御家人達が鶴岡八幡宮に集まり、アンチ景時集会が開かれた。
和田義盛や千葉常胤などを中心に、またたく間に御家人66人の景時糾弾の連判状が作られ、それを将軍頼家に言上。
その結果、景時とその一族は鎌倉から追放。
そして、京都上洛の途中に討たれ、ほぼ全滅!
っと、こんな流れになっているかと思います。
梶原景時の変の真実とは?
ではでは、本当のところはどうだったんでしょうか?
梶原景時は、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝から、全幅の信頼を得ていました。
石橋山の合戦で頼朝の危機を救ったこともありますが、何よりも相当に有能で義理堅く、情に厚い人柄だったからのようです。
このため、頼朝は幕府の右腕としても、家族の世話役としても、景時を引き立てて行きます。
当時最強の水軍勢力を任せ、今でいう軍事・警察・諜報の全てを握る侍所のトップに就かせ。
さらに、二代将軍頼家の後見人も任せていました。
このまま行けば、頼家が景時の娘でも娶って、鎌倉幕府も源家も梶原家も安泰!といったところでしょうか?
でも、そうなったら面白くないのは、他の御家人達!
とくに、侍所別当の座を景時に奪われた和田義盛や、強力な諜報軍団を従えていた千葉常胤あたりは、相当イラついていたのではないでしょうか?
黒幕はもちろん鎌倉北条氏!でも・・・
中でも!
一番イラついていたのが、北条時政ですよね?
せっかく、北条政子を頼朝に嫁がせたのに、このままだと美味しいところを全部梶原氏に持って行かれてしまう。
そこで考えついたのが『仲間割れさせて弱らせて、自分がのし上がる!』っという陰謀の常套手段!
まずは、一番強い梶原景時を、和田義盛と千葉常胤を盾に使って排除。
つぎに、後見人の景時を失った源頼家を暗殺!
そして、源実朝を盾に使って、和田義盛を排除!
最後に、実朝を暗殺して源家を排除!
こうして鎌倉北条氏が、執権として実権を握るようになった訳ですよね?
つまり、何が言いたいかというと・・・
梶原景時の変は、鎌倉北条氏の陰謀の第一発目ということ!
そして、この陰謀の片棒担いで諜報してたのが・・・
当時千葉氏の麾下にあった、風魔一族だったということ!
風魔と景時の子孫として思うこと
いやー。
千年近く前の出来事で、すでに完全に時効でしょうが、子孫としては複雑です(汗)
(^_^;)
だって『景時が、また讒言で誰かを陥れようとしている!』という流言・飛語を飛ばしたのも風魔だし。
その後すぐにアンチ景時集会や連判状が、タイミング良く出来るように根回ししたのも風魔。
さらに、事件の後「景時は性格が悪い」「景時は悪人」などのデマを流布したのも風魔な訳です。
歴史で語られる・・・
「讒言梶原」「ゲジゲジ梶原」なんていう、母親の先祖の悪口を流布していたのが、父親の先祖だったなんて、あまり気分の良いものではないですよね?
まあ、いずれにしろ!
そんな先祖関係を持つ父と母、折り合いが良いはずもなく・・・
やっぱりと言えばやっぱり!
ボクが幼少の頃に、あえなく離婚となっております(笑)
梶原景時の変の黒幕は、鎌倉北条氏!
でも、追い詰めたのは、風魔一族だった。
子孫としては、なかなかに複雑・・・