最近、歴オタの間でよく出てくるのが、女性武将についての話題!
歴オタ
女性武将の中で、誰が一番タイプ?
やっぱり、それは井伊直虎でしょ?
ヨシ
歴オタ
うわっ、出た!
それって、モロに大河ドラマの影響でしょ?
本当!ミーハーだー!
私なら、鶴姫かな?
歴女
歴オタ
俺だったら、巴御前かも?
えっ…?
女性武将って、そんなにいたの?
ヨシ
っという事で今回は!
平安時代から戦国時代を中心に、大活躍した女性武将についてまとめてみましたー。
せつない物語あり、驚愕エピソードありで「へー」なんて楽しめるかと思います。
ぜひ最後までおつき合いください!
巴御前
女性武将の筆頭と言ったら、なんと言っても巴御前!
木曽義仲の側室であり、配下の武将の一人でもありました。
弓と薙刀の名手としても知られ、女だてらに一騎当千の剛の者だったそうです。
「平家物語」や「源平盛衰記」によると、1184年の宇治川の戦いで敗走する義仲に従軍し、残り数騎になるまで義仲に付き従ったんだとか。
死を覚悟して義仲とともに戦おうとする巴御前でしたが、義仲の再三の説得についには折れ…
最後の奉公とばかり敵将一人の首を取り、鎧と兜を脱ぎ捨てて、東国へ落ち延びた様子が描かれています。
その後は尼になって、越後(新潟県)に住んだと伝えられています。
板額御前
そして、もう一方の女性武将の代名詞と言えば、板額御前!
巴御前とともに、「巴板額」なんて並び称されることも多いですよね?
板額御前は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての平家方の武将、城資国の娘。
源平合戦に破れた後、鎌倉幕府への反乱軍の将として大活躍しました。
弓の名手としても、かなりの有名人!
吾妻鏡によれば、鳥坂城に鎌倉幕府軍が押し寄せた時、髪を上げて少年のような姿になって矢倉の上に登り、自慢の強弓で襲いかかる敵を次々と射倒したそうです。
板額御前の弓のあまりの命中率と、当たれば確実に死ぬ強烈な威力で、意気上がる幕府軍を足止めしてしまったほど。
最後は、鎧のない足を弓で狙い撃ちされ捕虜になり、将軍の源頼家の前に引き据えられますが、全く臆せず終始凛とした様子だったんだとか。
その姿に感銘した甲斐源氏の浅利義遠に妻として迎えられ、最後は甲斐国(山梨県)で生涯を過ごしたと伝えられています。
鶴姫(大祝鶴)
鶴姫は、戦国時代に三島水軍を率いた女性武将!
『瀬戸内海のジャンヌ・ダルク』なんて呼ばれ、小説などでもけっこう有名!
鶴姫は、瀬戸内海の大三島にある、大山祇神社の大祝職(大宮司)大祝安用(おおほうり やすもち)の娘。
彼女の短くはかない生涯は、周防の大内氏との度重なる侵攻との戦いに明け暮れる日々でした。
1541年の大内氏の侵攻の際には、三島水軍を率いていた兄の安房が討死。
兄の死を知った鶴姫は、大薙刀を振るって敵陣に駆け込み、見事に大内軍を撃退したそうです。
その後鶴姫は兄の跡を継ぎ、16歳で三島水軍を率い、同じ年の大内氏の侵攻の際には…
「われは三島明神の鶴姫なり、立ち騒ぐ者あれば摩切りにせん」と啖呵を切って、敵将をバタバタと討ち取り、またもや大内軍を撃退したそうです。
ところが、2度の敗戦に業を煮やした大内軍は、大兵力を集結して決戦を挑んで来ます!
この戦いで、鶴姫の右腕であり恋人でもあった越智安成が討死。
追い詰められ敗色が濃くなる中で、鶴姫は最後の敗残兵を集め夜襲を仕掛け、またまた大内軍を撃退します!
こうして見事に三島を守りきった鶴姫でしたが、恋人を失った失意のあまり、ついには沖へ船を漕いで入水してしまったそうです。
鶴姫が18歳の時でした…
おつやの方
おつやの方は、戦国時代から安土桃山時代の女性武将。
織田信定の娘で、あの織田信長の叔母にあたります。
信長の身内でありながら、城を守るため武田方の武将に嫁ぎ、信長に処刑されるという悲しい運命を辿ります。
おつやの方がまず嫁いだのが、美濃岩村城主の遠山景任。
ただし、後継ぎが生まれる前に景任が病死したので、織田信長の五男の御坊丸(織田勝長)を養子に迎えます。
そして、幼い御坊丸の後見として、おつやの方が女城主として一切を仕切ることになりました。
ところがその年の秋、武田軍が大挙侵攻し、岩村城を包囲します。
おつやの方も、必死に応戦しますが、やがて窮地に陥ります。
そして、おつやの方の敗北が決定的になった時、武田軍の秋山虎繁が出した和睦の条件は婚姻…
つまり、御坊丸や将兵の命を助ける代わりに、織田信長を裏切って武田の武将と結婚しろ!ということ。
おつやの方は、義母として城主として悩んだ末、婚姻を受け入れます。
当然の事ながら、信長は叔母の裏切りに激怒!
後に岩村城を取り返した時、おつやの方も秋山虎繁も逆さ磔(はりつけ)にされ、処刑されてしまいました。
※参考
岩村醸造「おんな城主」
井伊直虎(次郎法師)
そしてもう一人の女城主と言えば、大河ドラマで有名な井伊直虎!
名前は男みたいですが、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した女武将です。
遠江国(静岡県)井伊谷城主、井伊直盛の娘として生まれました。
桶狭間の戦いで父の直盛が織田軍に討たれ、家督を継いだ養子の直親は、今川氏に討たれてしまいます。
その結果、井伊家の跡継ぎは、5歳の虎松だけになってしまいます。
そこで、次郎法師として出家していた直虎が還俗、虎松の後見人として『おんな城主 直虎』が誕生します!
その後、家老の小野氏や武田軍の山県昌景に城を奪われたりしますが、徳川家康の力を借りて何とか取り戻します。
そして、15歳になった虎松を当主として、徳川家康に仕えさせます。
この虎松こそが、のちに徳川四天王になる井伊直政です!
※出典
大河ドラマ「おんな城主 直虎」
妙林尼(吉岡妙林)
妙林尼は、戦国時代の女性武将!
敵の島津軍を、老人と女子供だけで殲滅したというスゴイ女傑です(驚)
妙林尼は、大友氏の家臣で吉岡統増という武将の母でした。
大友氏と島津氏の戦が始まると、息子の統増が本城に詰めることになりました。
そして妙林尼が留守を守る鶴崎城には、島津軍3千が侵攻!
若い兵は本城に行ってしまったので、鶴崎城に残るのは老人や女子供だけでした。
この絶対的に不利な状況の中、妙林尼は落とし穴を掘ったり罠を仕掛けたりして、島津軍の16回にも及ぶ猛攻を耐え抜きます。
そして最後は、降伏したふりをして島津軍に酒を飲ませ、敵が油断したところに不意打ちを仕掛け、ついには島津軍を殲滅してしまいます。
乙津川の戦いと呼ばれるこの戦で、白浜重政や伊集院久宣など島津方の多くの武将が討ち取られ、大友宗麟に63もの首が届けられたそうです。
甲斐姫(成田甲斐)
甲斐姫は、美貌と秀でた武芸で名高い、安土桃山時代の女性武将!
その容姿は「東国無双の美人」、武芸や軍事知識については「男子であれば、天下に名を成す」なんて言われるほどでした。
甲斐姫を有名にしたのは、映画「のぼうの城」でも描かれた「忍城の戦い」。
小田原征伐の際、石田三成率いる2万3千の豊臣軍が攻め寄せます。
これに対し忍城側は、兵500人と城下の民衆が2千人のみ。
それでも、城主の成田長親や甲斐姫を中心に忍城に籠城して、豊臣軍の猛攻に耐え抜きます。
手を焼いた豊臣軍は、援軍を送ったり水攻めしたりと、散々に忍城を攻め立てます。
そして、浅野長政の援軍が城の本丸まで迫った時、甲斐姫が自ら名刀「浪切」を携え、200余騎を率いて浅野勢を撃退!最後まで忍城を守りきります。
小田原征伐で落ちなかった城は、この忍城だけでした。
後に甲斐姫の武勇伝を聞いた秀吉は、甲斐姫をいたく気に入り、側室として迎えました。
※出典
東宝「のぼうの城」
立花誾千代
立花誾千代は、「鬼道雪」と恐れられた猛将「立花道雪」の一人娘。
7歳にして立花城の城主となり、西国一の女丈夫と謳われた女性武将です。
名前の「誾」の字は、「慎み人の話を聞く」という意味だそうですが…
父親譲りで、相当激しい気性だったようです(笑)
関ヶ原の戦いの際には、居城の宮永殿から自ら甲冑を着て出撃!
鉄砲隊を指揮して東軍の鍋島水軍を近づけず、さらに攻め寄せて来る加藤清正の軍を威嚇して、道を変えさせてしまったそうです。
そんな優秀な武将だった誾千代ですが、夫の立花宗茂とは不仲で、常に別居状態だったんだとか。
女性としては、気性が勝ちすぎていたためなのでしょうか…?
まとめ
さてさて、いかがでしたでしょうか?
平安から戦国って、完全に戦いの時代、武士の時代ですよね?
女性にとっては、すごく生きにくかったと思うんです。
そんな時代の中でも、ここに登場した女性武将達は、しっかり個性を花開かせ!
激しく生ききって、そして儚く散っています。
あなたは、どの女性武将がお好きでしたか?
女性武将は、こんなにいた!
気が強くて、跳ねっ返りが多いけど、それぞれみんな魅力的ですよね?